日本の偉人伝説

日本には、歴史上世界に誇れる偉人がいました。皆さんの知らない人、知っている人も再確認して、ご紹介したいと思います。

激動の時代を駆け抜けた男 渋沢栄一とはどんな人物?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
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今年の大河ドラマ『青天を衝け!』の主人公として脚光を浴びている
 
渋沢栄一とは、どんな人物なのでしょうか?
 
 
2024年には、福沢諭吉から渋沢栄一に1万円札の紙幣が変わりますね。
 
 
生い立ち
 
1840年に埼玉県深谷市血洗島の農家の3男として生まれます。
 
最初の名前は、市三郎でしたが、長男がなくなり栄次郎となり
 
又次男がなくなり栄一と名前が変わりました。
 
農家の家でしたが、藍染めの原料(藍玉)の販売、養蚕、雑貨の商い
 
で幅広く父親が経営していたので、かなり裕福な家庭に育っています。
 
また、父親は、学問にも熱心であったようで、7歳の時栄一を従兄の
 
尾高惇忠のもとで論語を学ばせます。
 
また父親と藍玉の行商にも行き商才を発揮するようになります。
 
ある時、藍の葉の取引で生産者を仰天させます。
 
少年の栄一をバカにしていた人達の前でどの葉がいい品質なのか
 
を見抜いたのです。
 
そこで栄一は、ランク付けしてよい品質には、高く買い取り
 
品質の劣るものには、安く買うという発想で、生産者の質の向上を
 
はかり底上げをしたのです。
 
 
栄一の最初の転機
 
1853年ペリー来航の時、日本が、非常に重大な危機に迫っていることに
 
気づき、国の為に役立つよう強い決意をします。
 
まだ若干13歳ですよ。
 
又ある時父親が、病気の為、変わりに代官へ出頭した時の事
 
いきなり藩主の娘の結婚資金の為500両の大金をだせといわれ
 
納得のいかない栄一は、心の中では、煮えくり返っていましたが、
 
ぐっとこらえ、「私は、父の代理できたので、父親にその旨をつたえ
 
お答えします」とその場での返事をきっぱり断ります。
 
しかし引き下がる代官ではなく「渋沢、おまえも17歳なら女子遊びを
 
する年頃だろう。それぐらいの事をすぐに決めて500両をだせ!」と
 
怒り心頭で突っ張ります。
 
帰り道栄一は、民が一生懸命に働いて稼いだお金をただ武士と
 
いうだけで、権力をふるまう世の中を変えていかなければと思い
 
倒幕思想にはしります。
 
21歳の時には、江戸にでて北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に
 
入門し剣術の修行に励みます。
 
剣術のかたわら勤王志士との交流がはじまります。
 
同じ思想の同士と高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちという過激な
 
尊王攘夷の計画が、幕府方にばれて逃げることになります。
 
 
 
江戸遊学の時に交際があった人物との運命的出会いとは?
 
 
 
逃げ込んだ先が、京都で一橋家の家臣 平岡円四郎の目に留まり
 
なんと一橋慶喜に仕えることになってしまうのです。
 
これで、命を狙われることが、なくなるのですが、討幕派だった栄一が
 
その火中にはいりこむとは、不思議な運命ですね。
 
栄一は、商才があったので、会計の方で頭角をあらわし、ドンドン
 
出世していきます。
 
一橋慶喜が、15代将軍となると直接意見もいえなくなり、
 
栄一は、希望を失います。
 
しかしまたまた転機がおとづれます。
 
 
パリ万国博覧会(1867年)開催
 
栄一は、27歳の時慶喜の弟、徳川昭武(水戸徳川11代当主)
 
のお供としてフランスに渡航します。
 
ヨーロッパ諸国を訪問して先進国の産業・諸制度におどろき感銘します。
 
大政奉還があり2年後帰国した時は、江戸から明治という時代に
 
変わっていました。
 
栄一は、静岡にいる慶喜の元を訪ねます。「これからは、おのれの道を
 
行きなさい」と助言され西洋で学んだ株式制度を実践したり、
 
静岡で、商法会所を1869年設立します。
 
栄一の活躍をきいた大隈重信は、栄一を政府の要人に引き込もうと
 
します。
 
一時は、政治家としても道を歩むも大久保利通らと国のお金の使い道
 
で意見の対立があり、あっさり、やめて実業家として日本の国のため
 
尽くすことを決意します。
 
日本初の銀行の設立からはじまり後に500社ほどの事業会社の設立に
 
関わります。
 
一橋大学日本女子大学の設立、東京商法会議所の設立、日本赤十字社
 
などの福祉・医療設立など約600の教育機関・社会公共事業の支援
 
並びに民間外交にも尽力しました。
 
 
栄一の基盤となったもの
 
 
栄一は、論語をすらすらといえるほど記憶していたといわれています。
 
よく三菱の岩崎弥太郎と比較されますが、当時一部の限られた経営陣で
 
利益を牛耳っていた社会とは、違って少額でも広く民間から出資を募って
 
会社をつくるという開放的な経営戦略を打ち出します。
 
多くの民が、潤う社会を作ることによって豊かな日本の発展につながると
 
考えたのです。
 
その点が他の事業家と大きく違うところだと思います。
 
 

 

まんが 超訳『論語と算盤』
 

 

まとめ
 
論語と算盤という著書がありますが、一見相反するようですが、
 
渋沢は、正しい考え方(道徳)で経営を行えば利益(お金)は、
 
自然とついてくるものだと教えています。
 
公益や社会貢献を考えながら一方で利益をあげていくという事
 
です。
 
利益は、自分のものにするのでなく国や日本の経済に還元していく
 
いう考え方なのです。
 
渋沢栄一の考えは、今でも通じるものが、たくさんありますね!
 
ですから新一万円札としてふさわしい人物では、ないでしょうか?