日本の偉人伝説

日本には、歴史上世界に誇れる偉人がいました。皆さんの知らない人、知っている人も再確認して、ご紹介したいと思います。

日米開戦に最後まで反対した男 山本五十六とは?

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。

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今日8月15日は、日本が敗戦宣言をした日ですね。
 
昨日から、映画チャンネルを見ていると、大東亜戦争に関する映画が、ズラリ
 
今日の日まで、様々放映されています。
 
昨日 あ、同期の桜 「8・15終戦の日未来に伝える太平洋戦争の記憶」
 
見ていました。
 
海軍飛行予備校生の手記に基づいたストーリーで、人間魚雷回天もでてきました。
 
山口県周南市徳山市)沖に大津島(おおずしま)という小さな島があります。
 
回天の訓練演習場の舞台になった所です。回転記念館があります。
 

 
 
明治17年1884年新潟県の長岡藩士 高野貞吉の6男として生まれます。
 
身体は、小柄でしたが、負けん気の強い少年でした。
 
叔父さんが、海軍軍人であったため、海軍に興味をもっていました。
 
五十六という名は、父が、56歳の時にできた子だったので、なずけました。
 
大正4年(1915年)31歳の時山本家を継ぐことになります。
 
軍学校でも200人中2位という学力優秀な生徒でした。
 
その後英語習得の為、アメリカに海外留学しのべ5年間にわたりアメリカに
 
関するあらゆる研究をしました。

アメリカ国内を視察し、油田、自動車産業、飛行機産業などに強い印象を
 
受けます。
 
親米家であったようです。
 
帰国後大正13年1924年)今後の国防の主力は、航空機にあると確信します。
 
海軍航空隊を設立します。
 
当時は、イギリス・アメリカの戦艦が、世界レベルで、戦艦による砲撃戦が
 
主流であったため多くの戦艦をつくること、デカイ戦艦を最強にという考えが
 
多くの意見でしたが、山本は、これからは、飛行機空中戦の時代になると
 
先見していました。
 
当時としては、まだ斬新な考えであったようです。
 
ですから、航空母艦とレベルの高い飛行機を作る必要がありました。
 
昭和5年(1930年)海軍航空本部技術部長の時は、航空技術は、世界のレベルから
 
大きく立ち遅れていました。
 
昭和15年(1940年)とうとう世界一と言われる零戦艦上戦闘機を三菱の主任設計技師
 
堀越二郎の手によって開発されます。
 
因みに零戦といわれるのは、日本の紀元2600年(昭和15年)にあたる
 
年だからと言われています。
 
 
山本は、日独伊三国同盟には、反対していました。
 
というのは、イギリス・アメリカを敵に回す事は、日本に勝ち目がないと思って
 
いたからです。
 
資源、国力の違いをアメリカ留学中によくわかっていたからです。
 
戦争の始まるぎりぎりまで、戦争を回避する事を考えていました。
 
がしかし、連合艦隊司令長官という立場から戦争が決定すると
 
短期決戦、早期和平へと考え方が変わっていきます。
 
 
山本の奇襲作戦
 
 
戦争は、できればやりたくない立場から、やらなければいけない状況に追い込まれ
 
悩んだ末にハワイの真珠湾攻撃という先手必勝のイチかバチかの賭けにでました。
 
指揮は、南雲機動部隊が、奇襲戦法で、主力艦8隻を撃沈破しアメリカに衝撃を
 
与えます。
 
日本の大勝利は、すぐに全国に広がり、日本国民の士気が、盛り上がり
 
神風が、日本に勝利をもたらしたという神話まで出る始末でした。
 
 
 
しかしアメリカの航空母艦4隻は、その場にはいなかった為、痛手を受けず
 
有頂天になった日本人の悲劇がはじまるのです。
 
山本は、冷静に考え、長期戦に持ち込めば、絶対に不利になるのは、
 
わかっていたため、短期戦で、アメリカに大打撃を与え、講和条約にもちこむ
 
作戦でいました。
 
 
アメリカの戦略
 
 
戦艦の修理、飛行機の増産によりアメリカの巻き返しがはじまります。
 
ミッドウェー海戦の時 昭和17年(1942年)6月5~7日に米の海軍に
 
よって日本の海軍は、空母4隻、航空機約300機を失う大打撃を受けます。
 
主導権が、米軍に移るターニングポイントになった戦いでした。
 
 
 
海軍では、優秀な軍人で高いリーダーシップを発揮し、将兵から親しまれた半面
 
アメリカ軍からは、要注意人物として警戒されていました。
 
当時の山本の行動は、アメリカ軍によって暗号が、解読されていたようです。
 
1943年4月18日、ソロモン諸島での視察の最中にアメリカ軍の襲撃をうけ
 
59歳で戦死しました。