日本の偉人伝説

日本には、歴史上世界に誇れる偉人がいました。皆さんの知らない人、知っている人も再確認して、ご紹介したいと思います。

ジャングルで30年戦い続けた最後の帝国軍人 小野田寛郎

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
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20代~30代のあなたは、終戦後、29年間ジャングルでたった一人に
 
なっても戦い続けた旧日本軍兵士 小野田寛郎(おのだひろお)さん
 
をご存じでしょうか?
 
1974年3月上官の任務解除の命令を受けてやっと日本に帰ることに
 
なりました。
 
あれから47年の月日が流れましたね。
 
 
少年時代
 
実家は、和歌山県海南市で1922年3月に生まれました。
 
 
少年時代の小野田さんは、負けず嫌いで意地っ張りでした。
 
教育者で政治家でもあった父親とは、いつも葛藤があったそうです。
 
小野田さんは、商売でお金を稼ぐことに野心をいだいていましたが、
 
厳格な父親は、お金は、生きていくのにある程度あればいいという
 
考えであったので、いつも意見の対立が絶えなかったそうです。
 
 
商社マンとして
 
 
17歳の時中国の上海で、商社マンとして働きます。
 
中国語も英語も堪能で、車の運転もできたそうです。
 
休みの時は、ダンスホールに通って遊んだことがあるそうです。
 
でも楽しかった時代は、わずか3年でした。
 
20歳になり、戦争が、激化してくると小野田さんもその波に飲み込まれる
 
運命となりました。
 
 
軍人として
 
 
1944年、小野田さんは情報将校(少尉)としてフィリピンのルバング島
 
に配属されます。ルバング島は、淡路島の半分ぐらいの面積です。
 
1945年2月にアメリカ軍が進行し日本軍と戦闘状態になりました。
 
 
敗戦後
 
 
 
多くの日本兵は戦死したり投降しましたが、小野田さんと3人の日本兵
 
徹底抗戦を続けます。
 
残された4人は上司からの「投降をせずにゲリラ戦を継続せよ」との忠実
 
に命令を守り、ジャングルの中で日本軍の増援を待ち続けたのです。
 
 
 
敗戦のビラが、空中にばらまかれましたが、これは、アメリカ軍の策略に
 
違いないと信じませんでした。
 
1950年に赤津勇一1等兵は、投降し、残り3人で戦いを続けます。
 
1954年 島田庄一伍長が打たれ死亡
 
1972年 小塚金七上等兵打たれ死亡
 
現地の人間に見つからないように2~3日ごとに場所を移動したそうです。
 
ジャングルでの戦闘生活で何が、一番つらかったかと聞きますと
 
食料の確保とか敗戦したことによる精神状態を保つ事を想像しましたが、
 
「雨です」と即座に答えられました。雨は、体を冷やすので、体調維持
 
にかなりこたえたそうです。
 
又地べたに寝る事にもかなりつらかったようで、慣れるまで3年かかった
 
そうです。
 
闇夜でも耳は、研ぎ澄まして敵兵がきてもすぐ気づくように神経は、
 
高ぶっていたそうです。
 
トランジスタラジオを改造して短波受信機をつくり、情報収集につとめ
 
来ることのない援軍をまちつづけたのです。
 
唯一の娯楽といえばラジオから流れてくる中央競馬の実況中継を
 
聞き戦友小塚さんと賭けをすることだったそうです。
 
 
転機が訪れる
 
 
1974年冒険家鈴木紀夫青年と出会いで、小野田さんは、
 
転機をむかえました。
 
谷口上官の命令解除で、フィリピン軍基地につくと小野田さんは、
 
処刑される覚悟であったそうです。
 
というのは、ゲリラ戦で生き延びるため現地の人々を数十名殺傷して
 
いるからです。
 
命をとるか取られるかの毎日で、戦っていたので致し方ない事
 
かもしれません。
 
フィリピン政府は、刑罰対象者の小野田さんを恩赦にし
 
マルコス大統領は、「立派な軍人」と評しています。
 
 
日本に帰国後
 
 
小野田さんのスケジュールは、政府の方から決められていて、検査入院
 
をすることになります。
 
ジャングル生活の長い小野田さんは、看護師さんの足音にも敏感でした。
 
どうしても敵兵が、いつ来るかの緊張感から、ささいな足音にも敏感でした。
 
退院後も過密スケジュールで、ふるさと和歌山で帰るまで、1か月かかった
 
そうです。
 
小野田さんは、政府からの見舞金100万円、方々から寄せられた義援金
 
のすべてを靖国神社に寄付しました。
 
しかし、マスコミは、「軍国主義の亡霊がかえってきた」と言ってバッシングします。
 
                朝日新聞
 
 
移住を決意
 
 
 
 
日本は、戦後変わってしまったことに戸惑いを感じ1年後ブラジルに
 
移住することを決意しました。
 
ブラジルにいる兄をたよって牧場経営に乗り出します。
 
ブラジルで経営も安定し一生過ごすつもりでしたが、日本での金属バット事件
 
に衝撃をうけます。(息子が、父親をバットで殴り殺した事件)
 
小野田さんは、ゲリラ戦の体験をいかして、青少年の教育のため
 
キャンプ教室を開き毎年春~夏にかけて日本に帰ってきました。
 
まとめ
 
1974年に見つかった時のあの険しい顔から柔和な顔に変わられた
 
小野田さんが、とても印象的でした。
 
もし、終戦後すぐに帰っていたら、貿易会社の社長として大活躍
 
していたと思います。
 
ルバング島での約30年間、その後の40年間の生活、2014年
 
小野田さんは、91歳の生涯を閉じました。