日本の偉人伝説

日本には、歴史上世界に誇れる偉人がいました。皆さんの知らない人、知っている人も再確認して、ご紹介したいと思います。

親鸞聖人の教え

こんにちは、ライフデザイナーのトンチーです。
 
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あなたは、親鸞聖人をどのくらいご存じですか?
 
私も最近興味をもったので、エラそうな事をのべるつもりなど
 
毛頭もありません。
 
コロナ感染で、経済的、精神的にきびしい世の中になった
 
今だからこそ親鸞聖人の教えを学ぶ機会かと思います。
 
 
急速に経済発展した日本社会と反比例する心の問題
 
 
戦後、日本は、敗戦とともにすっかり自信を失いかけていましたが、
 
見事に経済復興をして世界を代表する経済大国になりました。
 
一般家庭の生活レベルも格段と豊かになり、食欲、物欲に困らない
 
世の中になりました。
 
しかし、一方核家族化が進み、個人主義が、主張され、目上の人を
 
敬う気持ちが薄れてきました。
 
物は、あふれて何でも手に入る便利な世の中になったのですが、個々の
 
問題に光をあてると、相談する人がなく、うつ病になり、ひきこもる人も
 
現実に目立つようになっています。
 
心理カウンセラーによるアドバイスが、とても貴重な世の中になりました。
 
ある日突然有名人の自殺など、ニュースで驚かされる事がありますね。
 
 
なんとなく働いてなんとなく暮らしている毎日の中で、心の中が、
 
満たされていない自分に気づくようになりました。
 
このモヤモヤした気持ちを一掃する方法は、ないものでしょうか?
 
 
何故生きる?
 
人は、なぜ生きていかないといけないのでしょうか?
 
その生きる目的が、知りたくて探していたところ、親鸞聖人の教え
 
を書かれた「歎異抄」という本に出会う事になりました。
 
しかし、この本の解釈を誤ると非常に本来の教えとは、
 
かけ離れてしまうので、心して何度も繰り返し丁寧に読まない
 
といけません。
 
私たちは、絶対の幸福を得るために生きているのです。
 
親鸞聖人は、これを「摂取不捨の利益」といわれています。
 
がちっとおさめとって永遠に捨てる事のない幸福という意味です。
 
 
平生業成とは?
 
 
 
親鸞聖人の教えを一言でいうと平生業成(へいぜいごうじょう)という
 
言葉であらわせます。
 
生きている今人生の目的をだれでも達成することができる。
 
何人も救われますと意味です。
 
人が何のために生まれたのか、何のために生きなければならないのか?
 
すべての人にとってこれ以上大切な事は、ありません。
 
だから早く完成させて幸せになりなさいと教えられたのです。
 
 
間違った固定概念
 
親鸞聖人の教えている浄土真宗は、難しいお経を覚えたり、苦しい修行の
 
経験をつんだり、欲望を断ち切らなきゃ入門できないというハードルの高い
 
ものでなく、そういう人間の能力、経験は、まったく問題ありません。
 
何人も阿弥陀様におまかせして信心すれば、救われるという教えなのです。
 
念仏をたくさん唱えれば、人間の欲望がかなえられるという意味では、
 
けっしてありません。欲望は、死ぬまで尽きませんからね。
 
生きているうちは、誰しもむなしさを感じる時があります。
 
そのむなしさを本当に超えて行ける道が信心であると教えています。
 
あなたが、たとえ病気になろうとも、災害が、ふりかかろうとも
 
崩れる事のないゆるぎのない満足の心になることが大事だとおっしゃて
 
います。
 
 
 

 

親鸞聖人を学ぶ

親鸞聖人を学ぶ

 

 

 
親鸞聖人の生涯
 
平安末期の1173年に生まれ1262年に90歳で大往生しました。
 
幼少の時は、松若丸といい出家して範宴(はんねん),しゃっくう,善信と
 
名前を改名しています。
 
 
4歳で父親を亡くし、8歳で、母親を亡くすという悲しい人生経験をします。
 
9歳の時出家して、20年間修業しますが、自分の煩悩を捨てきれず、
 
悟りを開くことができなかったので、下山します。
 
聖徳太子を祭る六角堂で、100日祈願をしていたところ95日目に太子様の
 
夢告により法然上人の門に入ることになります。
 
法然上人を生涯の師と仰ぎ約6年間過ごされました。
 
また恵信尼公(えしんにこう)と出会い結婚されました。
 
後に4男3女のお子様を授かりました。
 
法然上人の念仏の教えは、老若男女、身分を問わずたくさんの人が帰依
 
されました。
 
しかし、興福寺延暦寺などの他宗から強く反発を受けついに朝廷が
 
弾圧に踏み切ります。
 
法然上人は、土佐へ、親鸞聖人(35歳)は、越後に流罪となりました。
 
5年後流罪が許されて法然上人がなくなった事を知ることになります。
 
京都には、帰らず関東の常陸を中心に約20年間過ごされ念仏の教えを
 
広く伝えます。
 
このころから教行信証を書き始めたといわれています。
 
60歳の頃京都に帰られました。その後関東では、念仏の受け止めをめぐって
 
さまざまな対立が起こります。その誤った教えを広めた長男の慈信房善鸞
 
(じしんぼうぜんらん)と親子の縁を切るという悲しい出来事がありました。
 
1262年末娘の覚信尼公(かくしんにこう)ら家族、門弟たちに看取られて
 
90年の生涯を閉じました。