江戸城無血開城の陰の主役といわれた人物とは?
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世界の歴史の中でも政権が、大きく変わる時、
血を流す事なく、歴史が、変わる例は、極めて稀な事なんですね。
もし、1868年 江戸城での会談が、破断に終わっていたら、江戸は、
火の海と化して、大混乱を起こしていたことでしょう!
歴史が、大きく変わり、外国からの圧力も影響して、日本の発展が、
遅れていたかもしれませんね。
江戸無血開城の立ち役者といえば?
思い浮かぶと思います。
実は、ここに行く前にお膳立てをし、8割方交渉のまとめ役をした人物が
いました。
その人の名は、山岡鉄舟といいます。通称は、鉄太郎といいます。
山岡鉄舟とは、どんな人物だったのでしょうか?
1836年 600石旗本小野朝右衛門の4男として江戸に生まれます。
物覚えがよくない少年でしたが、自分が、納得するまで、とことん努力
する性格でした。
書にもただ書くだけでなくその文字の意味を突き詰めて書きあげるので、
迫力のある書体で表現されていますね。
17歳まで飛騨高山で過ごし、儒学、書、剣を学び父親が、亡くなると
江戸に帰っています。
1855年20歳で、槍術の師山 山岡静山の家名を継ぎ 妹、英子(ふさこ)
と結婚します。
剣術は、千葉周作に習い、槍術は、山岡静山に習い、メキメキと頭角をあらわします。
上洛しています。後に袂を分かれますが、新選組にいると又歴史が、変わりますね。
つまり、抵抗せず、新政府に従うということですね。
物怖じしない山岡鉄舟
この時鉄舟32歳、隆盛40歳です。
隆盛は、5つの条件を出します。
1.城を明け渡す事
2.城中の家臣を向島へ移す事
3.兵器を渡す事
4.軍艦を渡す事
隆盛も一歩も引きさがらず『朝命でごわす』と譲りません。
そこで、鉄舟は、「立場を入れ替えて島津のお殿様が、慶喜公と
同じ立場になったら、その非情な命令は、忍び難くないか?」
と物怖じしてません。
ついに隆盛は、「わかり申した」と慶喜の助命を約束します。
隆盛と鉄舟には、立場は、違え同じにおい、気持ちがあったのでしょう!
後に隆盛が、鉄舟に対してこう述べています。
命もいらず、名もいらず
官位も金もいらぬ人は、始末に困る
でもこの始末に困る人でなければ
苦難を共にして
国家の大業は、成し得ない
明治以降の鉄舟の業績
武士の救済のため静岡の牧野が原に茶の栽培を推奨し、発展させました。
鉄舟の知らない意外な面
身長は、6尺2寸(188センチ)体重 28貫(105キロ)で、
当時の平均が、155センチですから大男でした。(西郷よりも大)
若い頃から、酒豪で、ある時二人で飲みあいをして、お互い5升のみ、
相手は、ダウン、その後さらに2升飲んで、家まで、堂々と帰ったという逸話が
あります。
そういった事が高じて胃がんで亡くなるのですが、亡くなる2~3日前から
自分の命の寿命が、分かっていたようで、勝海舟が、見舞いにいったあと
すぐに皇居に向かって座禅をくみそのまま永眠しました。
一刀正伝無刀流剣術の開祖であり、書、禅を極めた達人でした。